優生思想と聞くと、ナチスドイツや旧日本帝国などの軍国独裁政権で行われた、障害者弾圧のイメージが強いのですが、このような国家レベルの差別に限らず、個人のレベルにおいても、「障害者は不要」とする考え方を優生思想と呼んでいます。
正確にいうと「障害の有無や人種等を基準に人の優劣を定め、優秀な者にのみ存在価値を認める」という思想です。
歴史的な背景としては、ダーウィンの進化論がきっかけとなり、優秀な遺伝形質を多く残し、劣等なものは排除するのが望ましいとする「優生学」が興り、それを根拠に、様々な社会問題を解決させる手段としての差別行為を正当化する「優生思想」が生まれ、戦前の帝国主義者の政策に利用されるようになりました。
経済力や運動能力などの「生産性」のみで、人の価値を計ろうとするから障害者不要論が浮上してくるのでしょうが、それならば健常者の中にも随分と多くの不要な存在がいます。
むしろ数からすると、ろくに働こうともしない怠け者や、人の財産を掠め盗ろうとするロクデナシは、その殆どが健常者です。
生産性に劣るから障害者は劣悪で、健常者は優秀だとする障害者不要論は、無知蒙昧な責任転化の論理に過ぎません。
人の価値は生産性のみで決まるものではありません。
個人としての人格が持つ精神性や、他者に与える影響力等、森羅万象に対して何らかの変化をもたらす根源となる「存在意義」が総合的に評価されるべきです。
さてここで一つの設問をします。
親が我が子の健康を願うのは優生思想でしょうか?
また、生まれてくる子どもが健常であることを願うのは優生思想でしょうか?
「障害を嫌う」のと「障害者を嫌う」のとは厳密には別のものです。
「病気を嫌う」のと「病人を嫌う」の違いと同じです。
本来なら上記の答えは「否」ですが、この建て分けが出来る人は多くありません。
障害は「現象」であり、障害者は「それを体現している人(当体)」です。
障害を恐れ嫌う余りに、これを混同し、障害者をも恐れ嫌うところに優生思想の落とし穴があります。
「現象を体現する」のは、障害者だけではありません。
健常者もまた、現象を体現しています。
そうでなければ、実体の無い幽霊のような存在でしかないことになります。
さらに言えば、この世の中に「健常者」というものは存在しません。
誰であっても、何がしかの不具合を有しているものです。
「私は完璧に健常者だ」と言う人が居るとすれば、その人は精神科へ行く必要があります。
「まぁこれくらいならいいか」という「見なし健常者」が、「私は健常者だ」と言っているに過ぎないのです。
極めて軽度の障害者が、重度の障害者を差別しているだけのことです。
老化現象は誰人も逃れられない、そして確実に死に至る、最も恐ろしい「障害」です。
「老化現象」などとオブラートで包むから、自分が立派な障害者である事に誰もが気がつかないで居るのですが、全身の筋肉が衰え皮膚が弛み、あらゆる臓器が機能不全に陥り、記憶力、認識力、判断力に齟齬をきたし、一歩また一歩と死に近づいていく「老化障害」です。
人に限らず、すべての生き物は、生まれた瞬間から障害生物であることが定まって
いるのです。
(一部の原生生物は老化しませんが、異なる環境に対する適応能力がありません。)
まず障害者であることが根本としてあり、程度の軽重の差があるのが真理です。
「健常者」とは物理学でいうところの「剛体の棒」のように、人の頭の中にのみ存在し得るものなのです。
また、「健康な子どもが欲しい=健康でない子どもは要らない」という等式をよく目にしますが、値を変換するための係数的言葉が無いので不完全です。
「障害者が嫌だから健康な子どもが欲しい」であるならば成立しますが、「障害が嫌だから健康な子どもが欲しい」であるときの右辺は、「健康でない子どもを持つのが怖い」です。
「拒絶(障害が嫌)」と「否定(障害者が嫌)」とでは意味が違います。
残念ながら、この区別がちゃんと出来る人も、また少ないと言えます。
「拒絶」を説明する例えとして、高所恐怖症の人が、バンジージャンプで飛べない様な
ものと言えば解りやすいでしょうか。
いくら「大丈夫だ!」と言っても「飛んだら気持ちが良いから」と勧めても、出来ないものは、出来ません。
これを無理に突き落としたりしたら、もう何がどうなるか判りません。
心臓が止まるかも知れませんし、発狂するかも知れません。
失禁脱糞して、人前で醜態を晒し、自尊心がズタズタになるかも知れません。
もしそうなったら、私は突き落とした人を、容赦無く責めるでしょう。
「お前は人でなしだ!」と。
「否定」の最たるものと言えば「ホロコースト」でしょう。
「お前など生きる価値がないから抹殺してやる」
これこそ優生思想と言えます。
破滅的優生思想で、もはや正常な状態とは言えません。
明らかに「人格破綻」に陥っています。
両者を同等に扱うのは適切ではありません。
では「拒絶」は優生思想でないと言えるのでしょうか?
それがそうとも言いきれないのです。
ここまでも既にややこしい話でしたが、ここからはさらに、もつれて来ます。
先述の優生思想の定義からすると「拒絶」は、これに当てはまりません。
ところが、次のように言い換えたらどうでしょう。
「受け入れられる命と、そうでない命とを選別する」
こうなると、すっぽりと収まってしまいます。
最初の定義のものを「狭義」とすれば、今回のは「広義」の優生思想と言えます。
母親の「我が子が健康な体で生まれて来て欲しい」と願うことさえも優生思想の表れとなります。
しかし、それはどの時代の、どんな国の、どのような種族の人であっても思うことです。
思うなと言う方が乱暴です。
「願うだけならまだ良いが、選別することが良くないのだ」とする意見もありますが、「願う」という感情が発生してしまった以上、具体的な行動が無くても、何かに祈らずにはいられないでしょう。
それが、神であれ、仏であれ、はたまた狐狸であれ、クチナワであれ、「祈る」という行為自体が、ふるいにかけているものです。
自分では選別しないが、神仏に選別を依頼している事に他なりません。
「俺は、殺してくれと頼んだだけで、やったのはあいつだ」といっても無罪にはなりません。
「殺人教唆」という立派な罪により、刑務所に収監されることになります。
さてこうなると、世の中の全ての人は優生思想を持つと言えます。
もっとも「我が子の健康を願う」のは「願望」であって、論理付けされた「思想」では
ありません。
従って「優生願望」と呼ぶ方が適切です。
ここで一連の流れを追ってみましょう。
生存本能(生き延びたい)
↓
***経験則***
↓
恐怖心(死にたくない)
↓
***逃避衝動***
↓
差別意識(障害が怖い)
↓
***生への執着***
↓
優生願望(障害を避けたい)
↓
***現象と当体の混同***
↓
消極的優生思想(障害者を避けたい)
↓
***社会的な刷りこみ***
↓
積極的優生思想(障害者は不用)
↓
***人格破綻***
↓
破滅的優生思想(障害者を排除したい)
「生存本能」を始点とし「破滅的優生思想」を終点とする、人の心の変化の連続性が見て取れます。
優生思想とは、狭義においては「論理の顛倒」であり、広義においては種の保存に関する「本能的欲求」であると考えます。
もっともこれは、全てが悪循環した場合のモデルケースであって、必ずしもこうなる訳ではありません。
どこかで分岐させることで、有益な結果に導くことが可能であると考えます。