▲金剛(昭和12年 1月13日 横須賀沖にて 大改装後)
▲比叡(昭和14年12月5日 改装完了し宿毛湾にて全力公試)
▲榛名(昭和9年 改装完了し全力公試)
▲霧島(昭和12年5月10日 宿毛湾で碇泊中)
【生い立ち】
1905年の日本海海戦後、日本は自国の技術格差を解消し世界最先端の技術を学ぶ為、当時最新最強の技術を盛り込み巡洋戦艦を英国ヴィッカース社に発注した。
それが「金剛」であった。「金剛」は英巡洋戦艦ライオン級の強化・改良版として設計され、優速・強火力のきわめて優秀な巡洋戦艦となった。
第一次大戦の際に、英国海軍から借用を申し込まれたり、ほぼ同級のタイガー級を英国海軍が造ったことからもこの優秀性は証明されている。
「金剛」は英国で開発されたが、残る3隻の同型艦は「金剛」の図面を用いて国内で生産された。
2番艦「比叡」は横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」は神戸川崎造船所、4番艦「霧島」は長崎三菱造船所で建造された。
「比叡」は日本初の超弩級戦艦、「榛名」「霧島」は国内初の民間受注であり、受注先の川崎・三菱には競争意識が燃え上がった。
その加熱ぶりは、「榛名」の機関部担当者が故障による試運転の延期の責任を抱え込み自害するほどであった。
両者の競争意識に配慮してか、「榛名」と「霧島」は同日に引き渡されている。また、これにより民間にも造船技術が定着した。
これ以後、日本は海軍全艦艇を国内で生産。「金剛」は外国で建造された最後の大型艦となった。
こうして完成した「金剛」以下4艦は、36cm砲を世界で始めて採用。装甲を軽くする事で速力を増加させ、戦艦並の砲力と巡洋艦並の速力を持った。
が、「ジュットランド海戦」のにより巡洋戦艦の装甲が以下に薄いものであるかが露呈。
それは、遠距離砲戦での大落下角砲弾に極めて弱いという巡洋戦艦特有の欠陥だった。
この海戦での戦訓は大きな影響を与え、後にこの戦訓を取り入れた「ポスト・ジュットランド型」という呼称が生まれるほどであった。
これ以降、戦艦の砲力と防御力、巡洋艦の速力を融合させた「高速戦艦」の時代が幕を開けることとなる。
【改装】
ワシントン会議で主力艦を制限された日本は、規制主力艦の改装を禁止していない事に着目し、金剛型4隻の改装を開始。
大正13年に事故で第1砲塔を破損していた3番艦「榛名」(昭和3年完成)から改装を開始。昭和3年に「金剛」、4年「比叡」、5年「霧島」と続く。
この工事により排水量が増加し速力が25ノット程度に低下したため、艦種を戦艦に改めている。
唯一「比叡」はロンドン軍縮会議で保有主力艦から外され、急遽工事を中断。4番砲塔、全副砲、装甲帯等を撤去し「練習戦艦」に格下げされた。
とはいっても「比叡」は艦内スペースに余裕が出来、観艦式や大演習の際御召艦として重宝。「海軍休日」中でも華やかな経験をすることが出来た。
【近代化大改装】
その後「比叡」を除く3艦は昭和8・9年に相次いで第2次改装を開始。この工事で金剛型本来の高速性を取り戻し、対空兵装を強化する。
改装は昭和12年に完成。この工事で3艦は30ノット前後の優速を取り戻し、艦容も我々が見慣れたものに変化した。
それと入れ違いに、条約解消の為「比叡」が大改装を開始。3艦が2度に分けて行った工事を1度で行った。
「比叡」は建造中であった大和型のテストケースとなり、最新式の九八式方位盤照準装置と九八式射撃盤など新機軸を試験的に装備。
その結果、3艦よりもひときわ強力な新装艦となり、「比叡」の艦橋は「大和」とよく似た物となった(上の写真参考)。
こうして2度の改装により生まれ変わった4艦は、速力30ノット前後、36cm主砲4基という強力な「高速戦艦」に生まれ変わった。
【比叡奮戦す】
開戦後、「比叡」「霧島」は機動部隊と共に真珠湾攻撃に参加。「金剛」「榛名」はマレー方面へ出撃する。
続くミッドウェー海戦では「霧島」「榛名」が第1機動部隊、「金剛」「比叡」が後続部隊として参加する。
ミッドウェー作戦失敗後、「金剛」「比叡」はアリューシャン攻略支援部隊の編入され、作戦終了後帰還。
金剛型4艦はその速力の為、機動部隊の護衛という任務が主で、活躍の機会は多かった。
ミッドウェー海戦から4ヵ月後、「金剛」「榛名」はガダルカナル島の米軍飛行場を砲撃。
一式徹鋼弾、零式榴散弾、三式弾3種の砲弾を撃ちまくり、同飛行場を1夜にして廃墟にした。
この1時間半の間に、「金剛」は一式徹鋼弾と三式弾を計435発、副砲27発、「榛名」は零式榴散弾と一式徹甲弾を計483発、副砲21発を発射した。
この「金剛」「榛名」による飛行場砲撃の効果を認められ、「比叡」「霧島」の2艦で再度飛行場の砲撃が決定された。
11/12深夜、ガダルカナル島沖で攻撃隊は米巡洋艦艦隊と遭遇した。
「比叡」は飛行場砲撃用に三式弾を装填していたが、そのまま砲撃を敢行。三式弾は米艦隊旗艦アトランタの艦橋を直撃。
本来は対空弾で三式弾であるが、その特性から艦橋構造物をめちゃくちゃに破壊し、アトランタは大破炎上、司令官スコット少将以下艦隊幕僚は戦死した
日本艦隊旗艦である「比叡」は自ら探照灯で敵艦を照らし、後続艦の目印としながら自らも敵艦を次々と砲撃していった。
この戦いの結果、日本艦隊は駆逐艦「フレッチャー」以外の全ての艦を撃沈、もしくは大破させ全滅ともいえる被害を与える事に成功した。
だが、「比叡」は機銃の集中掃射を始め20cm砲弾を数発受け、そこかしこが損傷。更には艦尾付近への命中弾により舵に故障が発生していた。
機関も無事で浸水も大したことはなかったが、穴の位置が位置なだけに修理に手間取ってしまった。
そうこうしているうちに夜が明け敵艦載機群が飛来する。舵は面舵一杯のまま固定されているが、黙って浮いてても仕方ないので全速航進で回避を始める。
すると、浸水が増え修理作業が中断されるという悪循環。結局、修理は出来なかった。
護衛の零戦と共に「比叡」も三式弾で反撃し、敵編隊を一網打尽に撃墜するなど奮戦するも、結局自沈処理が決定する。
拒む艦長を何とか説得し、午後4時に総員退艦。キングストン弁を開いた。
一旦後退した駆逐艦が後で引き返すと、「比叡」の艦影はすでになかった。開戦後初めての戦艦喪失であった。
(この時艦長は機関が駄目になってしまったと思い、自沈を決定した。しかし、実際は機関は無事だったらしい。自沈処理後、そのことを知った艦長は「騙された・・・!」と漏らしたらしい。(戦艦比叡より)
【霧島沈む】
「比叡」の沈んだ翌日、「霧島」は味方艦隊と共に再び飛行場を砲撃すべく出撃した。
一方の米国はこの海域に40㎝砲搭載の最新鋭艦ワシントンとサウスダコタを派遣していた。日本が「大和」を出し惜しみしたのとは正反対である。
暗闇の中突如この2隻に遭遇した「霧島」は僚艦の重巡「愛宕」・「高雄」と共にサウスダコタを猛然と集中砲火。
これによりサウスダコタは上部構造物をめちゃくちゃに破壊され戦場を離脱。修理のため三ヶ月の戦線離脱を余儀なくされた。
しかし、サウスダコタを隠れ蓑にしたワシントンが電探照準により「霧島」を砲撃。
「霧島」は40㎝弾を10数発、12㎝弾等を加え50発近く被弾し大破炎上。更に舵を損傷し操舵不能となった。
必死の普及作業空しく、総員退艦後が下された。「霧島」は左に倒れソロモンの海に沈んでいった(戦後に海底調査で発見される)。
【金剛斃れる】
1944年10月、マリアナ沖海戦で機動部隊も壊滅した日本海軍は「捷一号作戦」を発令。「金剛」「榛名」など残存艦艇の8割を投入した。
「金剛」「榛名」は栗田艦隊に編入され、サマール島沖海戦に参加。10/25早朝に遭遇した敵護衛空母軍を滅多撃ちにする。
この時、栗田司令が敵を高速空母群と勘違いし逃がすものかと隊列を組まず、各艦適当に突撃を行った為日本海軍は統率を取れなかった。
その結果として「金剛」は単艦敵艦隊に肉薄。多大な戦果を得るに至る。故障で三軸推進であった「榛名」は全速を出せず存分に戦えなかった。
この戦いで「金剛」は護衛空母「ガンビア・ベイ」を撃沈(「大和」がと言われるが胡散臭い)した。戦史上空母を砲撃で撃沈したのは「金剛」と独戦艦シャルンホルストのみである。
翌月、ブルネイから日本に引き上げる途中「金剛」は台湾沖で米潜水艦「シーライオン」の雷撃を受けた。
しばらくは問題なく航行したが、船体の老化と18ノットへの増速の結果損傷箇所の破孔が拡大してしまう。
更に波の衝撃も加わり、甲板の合わせ目が緩み各所で浸水。一部の罐が使用不能となり、速力が落ち左に14度傾斜しつつ1時間半走り続けた。
必至の注排水空しく傾斜は変わらず、更に傾斜が増大し平衡を保てなくなった。乗組員は舷をよじ登って艦腹に登っているほどだ。
退艦命令の後、「金剛」はそのまま横転し沈んでいった。潜水艦に撃沈された唯一の戦艦である。
【榛名の最後】
「榛名」は呉に回航され、陸上砲として使用するため副砲全てと機銃3/4を撤去された。
昭和20年6/23の空襲で、呉に「榛名」を置いておく危険を感じた鎮守府は「榛名」を江田島に移動。
だが、その後の空襲でも米軍は動けない「榛名」を執拗に攻撃。三式弾をぶち込むなど反撃するも直撃弾計14発を受け、ついに着底した。
「榛名」は翌年の昭和21年に浮揚、解体された。
この4艦が旧式ながら日本海軍の戦艦で唯一、存分に活躍できたのは、この4艦が「高速」であった事に他ならない。
性能
金剛型 性能(【】は他3艦) | |
排水量 | (公試)36,314t 【比叡(公試)37,000t】 【榛名(公試)36,601t】 【霧島(公試)36,668t)】 |
長さ | (全長)219,34m 【比叡(全長)219,4m】 【榛名・霧島219,61m】 |
ボイラー | ロ号艦本式重油専焼罐×8 【榛名 ロ号艦本式重油専焼罐×11】 |
タービン | 艦本式オールギヤードタービン×4基 4本 |
出力 | 136,000馬力 |
最大速力 | 30,3ノット 【比叡29,7ノット】 【榛名30,5ノット】 【霧島29,8ノット】 |
航続距離 | 18ノット-9,800海里 【榛名18ノット-1,0000海里】 【霧島18ノット-9,850海里】 |
燃料×満載 | 重油×6,480t 【比叡 重油×6,240t】 【榛名 重油×6,330t】 【霧島 重油×6,403t】 |
乗組員 | 1,437人 【比叡1,222人】 【霧島1,440人】 |
武装 | 45口径35,6㎝連装主砲×4 45口径15,2㎝副砲×14 40口径12,7㎝連装高射砲×4 25㎜連装機銃×10 |
装甲 | 水線303㎜ 甲板172㎜ 主砲搭300㎜ 司令塔254㎜ |
飛行機 | 水上偵察機×3 カタパルト×1 |
艦名の由来
金剛 | 大坂と奈良の県境にある金剛山地の金剛山 |
比叡 | 京都、滋賀にまたがる比叡山。織田信長の焼き討ち、天台宗の総本山として有名 |
榛名 | 群馬県中部の火山榛名山。いくつかの火山が連なる複合火山 |
霧島 | 宮崎県と鹿児島県にある火山群の総称、霧島山 |
年表
金剛 | ||
1911年(M45) | 1/7 | 英国ヴィッカース社に発注 |
1912年(T1) | 5/18 | 進水 |
1913年(T2) | 8/16 | 巡洋戦艦として同社で竣工 |
1928年(S3) | 12/1 | 第一次改装 |
1931年(S6) | 6月 | 戦艦に艦種変更 |
1935年(S10) | 6/1 | 第二次改装 |
1941年(S16) | 12/2 | 馬公出撃。マレー上陸作戦支援 |
1942年(S17) | 2/19 | インド洋作戦参加 |
6/5 | ミッドウェー海戦参加 | |
6/9 | 北方作戦支援へ | |
10/13 | ガダルカナル島の米軍飛行基地砲撃 | |
1944年(S19) | 6/19 | マリアナ沖海戦参加 |
10/22 | 捷一号作戦。ブルネイ出撃。比島沖海戦参加 | |
10/25 | サマール島沖にて米護衛空母弾に砲撃 | |
11/21 | 日本へ向かう途中台湾の基隆北方60海里(70?)で米潜シーライオンの雷撃を受け沈没 | |
1945年(S20) | 1/20 | 除籍 |
比叡 | ||
1914年(T3) | 8/4 | 横須賀海軍工廠にて竣工 |
1930年(S5) | 4月 | 第一次改装中に練習戦艦への艦種変更が決定。改造。 |
1937年(S12) | 4/1 | 大改装。本来の姿に復帰 |
1941年(S16) | 11/26 | 択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾出撃。ハワイへ |
12/6 | ハワイ作戦参加 | |
1942年(S17) | 2/16 | インド洋作戦参加 |
5/29 | ミッドウェー攻撃部隊と共に柱島出撃 | |
6/5 | 作戦失敗反転 | |
8/24 | 第二次ソロモン海海戦 | |
11/12 | ガダルカナル島、サボ島の間で米艦隊と遭遇。第三次ソロモン海海戦。舵・艦橋付近などに被弾。操艦不能に | |
11/13 | 夕方、サボ島北方4,6海里の地点にて自沈 | |
12/20 | 除籍 |
榛名 | ||
1915年(T4) | 4/29 | 神戸川崎造船所にて竣工 |
1923年(T12) | 年末 | 第一次改装 |
1933年(S8)) | 8月 | 第二次改装 |
1941年(S16) | 12/4 | マレー攻略作戦支援の為馬公出撃 |
1942年(S17) | 2/16 | インド洋作戦参加 |
5/27 | ミッドウェー作戦支援の為柱島出撃 | |
10/13 | ガダルカナル島の米航空基地砲撃 | |
1944年(S19) | 6/20 | マリアナ沖海戦参加 |
10/22 | 捷一号作戦。ブルネイ泊地出撃 | |
10/25 | サマール島沖で米護衛空母群を砲撃 | |
1945年(S20) | 3/19 | 呉海軍工廠にて修理中、米機の攻撃を受け爆弾1発命中 |
6/22 | 米機の攻撃を受ける | |
7/2 | 米機の攻撃を受ける | |
7/28 | 米機の攻撃を受け江田島小用沖(呉港内?)で大破着底。終戦を迎える | |
11/20 | 除籍 | |
1946年(S21) | 解体 |
霧島 | ||
1915年(T4) | 4/19 | 長崎三菱造船所にて竣工 |
1927年(S2) | 3月 | 第一改装 |
1934年(S9) | 6/1 | 第二次改装 |
1941年(S16) | 11/26 | ハワイ作戦の為択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾出撃 |
1942年(S17) | 1/20 | ラバウル攻略作戦参加 |
2/16 | インド洋作戦参加 | |
5/27 | ミッドウェー作戦支援の為柱島出撃 | |
7月 | 呉に帰投。比叡と共に第11戦隊に編入され出撃 | |
8/24 | 第二次ソロモン海海戦 | |
10/26 | 南太平洋海戦 | |
11/9 | ガダルカナル島砲撃 | |
11/12 | 第三次ソロモン海海戦 | |
11/14 | サボ島沖で米戦艦「サウスダコタ」「ワシントン」らと交戦。「サウスダコタ」を大破させるも、被弾大破炎上し沈没 | |
12/20 | 除籍 |