▲大和(1941年 10/30公試?)
▲大和(1945年 4/7 米機の攻撃に晒される大和)
▲武蔵(1942年 トラック諸島泊地にて停泊中。電探装備済み。白いのは日よけの天幕。)
【開発背景】
史上最大最強にして日本人(特に男子)なら誰もが知っている筈の戦艦。同型艦は「武蔵」。日本海軍が軍縮条約脱退後建造した最初で最後の戦艦。
大正9年のワシントン軍縮会議と昭和5年のロンドン会議、2つの軍縮条約により日本海軍は著しく勢力を減退した。
その為、当時の大陸侵攻政策に大きく支障をきたす事が明白となった。
そこで条約期限の満了をもって条約を脱退。まだ何所の国にも造られていない46cm砲搭載の大戦艦を建造し、量より質で英米を上回ろうとした。
【大戦艦竣工】
計画は昭和9年より軍令部により着手され、多くの案が検討された。基本的艦型の決定まで24種の艦型が設計され、100回以上の会議が行われた。
約2年後の昭和11年7月に基本設計が決定。これを「A140-F5」型と呼び、第1号艦に制定した。この設計は、世界水上艦艇史上最大のものとなった。
世界の海軍において46cm砲搭載艦の開発に成功したのは日本だけである。当時の常識では主砲は最大で40㎝が限度と言われていた。
特に米海軍は太平洋・大西洋の両面を守備する都合上、パナマ運河の通行が必須。その為運河幅33.5メートル以上の戦艦は造れなかった。
(当時は46cm砲を搭載すると幅が40m以上、長さ300mを超えると予想されていた。)
敵が造れない戦艦を造れば米海軍を凌駕できる。日本海軍はそう考えた。
攻撃面で46㎝砲は40㎝砲と比べて破壊力は1.6倍、射程距離は40㎝砲の3万7千mに対し、4万2千m。つまり、相手の射程外からいち早く攻撃が可能であった。
砲弾の重さは1460㎏、長さは1.95m。3万5千mの距離で発射すれば厚さ23cmの水平鋼板、30cmの垂直鋼板をぶち抜くほどの威力があった。
それに合わせ防御は重厚で、ヴァイタルパートは上面を厚さ20㎝、側面(舷側)を41cm、前後面を30cmの甲鈑で囲んだ。
これは、46cm砲弾を2万~3万5千mで10発食らってもびくともせず、魚雷を2発同じ場所に受けても応急対策で無傷同様に航行できるというものだった。
その他の部分は1147区画に分けられた防水区画で防御された。更に舷側には20ミリ甲鈑のバルジが装着された。
このバルジ内は小区画に分かれていて、内部には魚雷の爆発力を吸収する鋼鉄のパイプが集束収納されていて、パイプの壁のように見えた。
一方で艦幅は38mと広い。これは46cm3連装砲塔の直径が13mあり、甲板に巨大な穴が開くので艦体の強度を保つため3倍にしたのである。
これでもかなりコンパクトにまとまったほうで、46cm砲9門3基を263mに収めたというのは凄いことなのである。
余談だが、46cm砲一斉射撃の際の衝撃は凄まじく艦橋でも口から内蔵が逆流してきそうになり、立っている事も困難なほどの揺れが生じた。
発射時の爆風は人体が耐え得るものではなく、実験用のモルモットはほとんどが内臓と眼球を飛び出させて死んでいた(吉村昭著「戦艦武蔵」より)。
1941年12/16、真珠湾攻撃の2週間後「大和」は完成する。完成後の「大和(と武蔵)」は「長門」や「陸奥」と違い、国民にもその存在を秘密された。
その為、当時を生きた人でも「大和・武蔵の現物」を見たという人は少なく、国民のほとんどは終戦後の報道までその存在すら知らなかった。
(しかし「長門よりでかい船があるらしい」と噂になっていたり、呉の人々はなんかすげぇ艦があると感じていたりしたらしい。)
その甲斐あってか米軍は1944年まで「大和」と「武蔵」を知らず、主砲も戦後になるまで40cm砲だと思っていたらしい。
(たんに戦場に出てこないから知られてないだけなのだろうが)
完成した「大和」は翌年の2/11に「長門」より連合艦隊の旗艦の任を受け継いだ。
【大戦初期の大和】
1942年の5/29、「大和」は連合艦隊旗艦としてミッドウェー作戦支援の為に柱島出撃。だが4空母の沈没で作戦は中止となり空しく柱島に帰還。
続く8/17、ガダルカナル島を巡る攻防が始まり作戦支援の為に柱島を出撃。トラック島を目指し南進する。
トラックでの「大和」は旗艦である事から作戦指導は繁忙を極めたが、艦自体は泊地に鎮座警泊して艦体所定作業を繰り返すだけだった。
その為と居住区のつくりがよかったことから、「大和ホテル」と陰口を叩かれたりもした。この年の夏には同型艦の武蔵が竣工。旗艦の座を譲る。
翌年の43年5/8、「大和」は内海西部に向かいトラック出港。洋上訓練を行いながら5/13柱島着。呉で整備補給を行い、8/17再びトラックに向け出撃。
12/12、今度は横須賀へ向けトラック出港。20日、今度は横須賀から陸兵一個連隊約4千人を乗せトラックへ向かった。
25日、トラックへ入港という時「大和」に3本の雷跡が。緊急回頭で2本を回避するも右舷3番砲塔下に1本命中。大音響とともに巨大な水柱があがった。
この時「大和」は震度5くらいの横ぶれ(!)が起きただけで、浸水はしたが人員も積載物資も被害はなかった。
乗っていた陸兵は魚雷を受けたことを知らなかったほどである。1943年に「武蔵」は、戦死した山本長官の遺骨を日本へ持ち帰っている。
【激闘の捷一号作戦】
1944年1/10、「大和」は破損箇所修理の為呉へ向け出港。16日呉着。ここで対空兵装の強化工事を実施。
両舷の副砲を撤去し25ミリ3連装機銃座を21基増設。さらに25ミリ単装機銃26挺を甲板上に所狭しと配置。対空機銃は合計で113挺となった。
4/21日、陸兵を満載しマニラ経由リンガ泊地へ出撃。5/1リンガ着。
さらにタウイタウイへ向かい、5/20に「あ号作戦」の命を受ける。しかし、6/19~21のマリアナ沖海戦ではミッドウェーの二の舞となってしまった。
「大和」はその巨砲を敵艦に撃つ事はなく、航空機相手に機銃と高角砲をわずかに浴びせただけだった。
7/16日リンガ泊地に投錨。ここで連日連夜、約3ヶ月に渡ってもう訓練を行う(主にレーダー射撃)。
10/17、連合艦隊司令部は「捷一号作戦警戒」を発令。翌日「大和」はブルネイへ向けリンガ出撃。
22日、ブルネイに集結した第一遊撃部隊(栗田艦隊)は栗田健男中将の指揮の下、レイテ湾の敵終結地に向かい行動を開始した。
(作戦の概要は「扶桑型」を参照のこと)
そして、「大和」はシブヤン海で僚艦「武蔵」を失いつつも25日早朝、米護衛空母軍を発見しこれを攻撃する。
しかし戦果は望めず、結局は栗田中将の反転命令により作戦は中止となってしまった。
戦闘詳細はこちら。
【大和、沖縄へ】
日本に帰国した大和は翌年の昭和20年4月、「第二艦隊は沖縄嘉手沖の敵泊地に突入すべし。燃料は片道。特攻作戦と承知ありたし」の命を受けた。
「大和」首脳部は猛烈に反論するも、草鹿龍之介参謀長の「第二艦隊は一億総特攻の先駆けになってもらいたいのだ・・・」
という言葉を聞いた伊藤中将が、「わかった」と頷くと議論は途切れた。こうして、第二艦隊は沖縄へ特攻することとなった。
旗艦「大和」に従うは軽巡「矢萩」、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「霞」「初霜」の第二水雷戦隊計9隻。
4月5日、第二艦隊は徳山港外で出撃準備を開始。燃料、魚雷、弾薬の搭載作業が夜遅くまで続いた。
片道燃料との指示だったが、タンクの責任者が無断で「大和」に4千tも積み込んだ。
「矢萩」以下の駆逐艦は満載なので片道どころか往復してもあまるほどである。このことは連合艦隊司令部は知らない。
6日15:20、「大和」は第二水雷戦隊を率いて徳山沖を出港した。全軍死を覚悟しての出撃だった。
翌7日正午、第二艦隊は米空母部隊の熾烈な反復攻撃を受ける。
すでに戦いの主導権は航空機に移っていた。「大和」は延べ千機にもわたる反復攻撃の末、午後2:23、遂に沈没した。戦闘詳細はこちら
残ったのは「雪風」「冬月」「初霜」「涼月」の4隻。「涼月」は大破していて作戦不能。駆逐艦3隻では沖縄突入も不可能と作戦は中止。
3隻は生存者を救出して佐世保に帰投していった。
「大和(型)」は大艦巨砲主義の集大成であった。が、戦いの中心は航空機と空母へと移っていた。
「大和」の沈没により大艦巨砲主義は敗北し、「戦艦の時代」終焉を迎えた。
しかし、日本が開国70年余りで史上最大最強の戦艦を造った事は事実であり、我国が後世に唯一残し、誇れる破られる事のない記録でもある。
また、「大和」の技術は戦後の造船業をはじめ各界でも応用されたりしていて、今日も生きている。
バルバスバウはまさに「大和」のそれである。他にも、ホテルニューオータニ(東京)の屋上回転展望食堂は、大和の主砲回転技術が流用されている。
ちなみに、武蔵を作った三菱長崎造船所は「今現在武蔵は作れますか?」という問いに、「作れます。同時に6隻くらいなら」と答えたらしい。
そして何よりも、日本が世界一の造船技術を誇るのは、「大和」を初め連合艦隊建造でのノウハウが生きていることの何よりの証であるのだ。
大和型 性能 | |
排水量 | (基準)64,000t (公試)69,100t |
長さ | (全長)263.0m (喫水)256.0m |
ボイラー | ロ号艦本式空気予熱器付重油専焼罐×12 |
タービン | 艦本式オールギャードタービン×8 4本 |
出力 | 150,000馬力 |
速力 | 27.0ノット |
航続距離 | 16ノット-7,200海里 |
燃料×満載 | 重油×6,400t |
乗組員 | 2.500人 |
武装 | 竣工時:45口径46㎝3連装主砲×3 60口径15.5㎝3連装副砲×4 40口径12.7㎝連装高射砲×6 大和最終:45口径46㎝3連装主砲×3 60口径15.5㎝3連装副砲×2 40口径12.7㎝連装高射砲×12 25㎜3連装対空機銃×29 25㎜単装対空機銃×26 |
飛行機 | 水上偵察機×7 カタパルト×2 |
装甲 |
水線410(VH鋼、傾斜20゚)、甲板230、砲塔前楯650、天蓋270、側楯250、後楯190、司令塔500mm |
艦名の由来
大和 | 旧国名。現在の奈良県。または日本全体を指す |
武蔵 | 旧国名。現在の東京都、埼玉県、神奈川県の東部 |
信濃 | 旧国名。現在の長野県。航空母艦として竣工 |
111号艦 | 建造中止。一説によると尾張 |
大和型艦艇年表
大和 | ||
1937年(S12) | 11/4 | 呉海軍工廠造船第4船渠にて起工 |
1940年(S15) | 8/8 | 午前8時30分、進水 |
1941年(S16) | 12/16 | 竣工。呉鎮守府に籍をおく |
12/21 | 連合艦隊第1艦隊第1戦隊に編入 | |
1942年(S17) | 2/21 | 連合艦隊旗艦となる |
5/29 | ミッドウェー作戦支援の為柱島出撃 | |
6/14 | 柱島帰投 | |
8/17 | ソロモン作戦支援の為柱島出撃 | |
8/28 | トラック春島第2錨地入港 | |
1943年(S18) | 2/11 | 連合艦隊旗艦を「武蔵」に移す |
5/8 | トラック出港 | |
5/13 | 柱島入港 | |
5/14 | 呉入港 | |
5/21 | 呉工廠にて修理(~30) | |
7/12 | 呉工廠にて修理(~17) | |
8/16 | 呉出港 | |
8/23 | トラック入港 | |
12/17 | 横須賀から物資をトラックへ輸送 | |
12/25 | トラック入港。入港直前に米潜スケートの魚雷を受ける | |
1944年(S19) | 1/10 | トラック出港 |
1/16 | 呉入港 | |
2/3 | 呉工廠第4船渠にて損傷箇所を調査 | |
2/25 | 第1戦隊、第2艦隊に編入 | |
3/18 | 呉工廠にて修理。加えて両舷の副砲を撤去、高角砲と機銃を増設 | |
6/15 | マリアナ沖海戦参加 | |
10/22 | 捷一号作戦。ブルネイを出撃しレイテ湾へ | |
10/25 | サマール島沖にて米護衛空母艦隊を砲撃 | |
11/15 | 第2艦隊直率となる | |
11/24 | 呉工廠にて修理、機銃の増設を実施 | |
1945年(S20) | 2/10 | 第2艦隊第1航空戦隊に編入 |
4/6 | 菊水作戦。一億総玉砕の先駆けとして軽巡「矢萩」始め駆逐艦ら9隻(計10隻)と共に沖縄へ向け出港 | |
4/7 | 正午ごろ米艦載機群と戦闘開始。無数の爆弾、魚雷10発を左舷に受け弾薬庫が爆発。PM2:23九州西方の東シナ海に没す | |
8/31 | 除籍 | |
1980年(S55) | ? | NHKが沈没調査を実施。台風の為沈没位置の特定に留まる(のはず) |
1999年(H11) | ? | フジテレビの特番にて沈没調査。遺留品の一部を引き上げ、船体の写真撮影などを行う |
武蔵 | ||
1938年(S13) | 3/29 | 三菱長崎造船所第2船台にて起工 |
1940年(S15) | 11/1 | 午前8時55分、進水 |
1942年(S17) | 8/5 | 竣工、横須賀鎮守府に籍をおく |
8/7 | 連合艦隊第1艦隊第1戦隊編入 | |
1943年(S18) | 1/18 | トラック諸島へ向け呉出港 |
1/22 | トラック入港 | |
2/11 | 連合艦隊旗艦となる | |
5/17 | 山本五十六長官の遺骨を乗せ、戦艦「金剛」「榛名」、重巡「利根」「筑摩」、空母「隼鷹」「飛鷹」、駆逐艦4(時雨、有明、海風、涼月)を率いて トラック出港 |
|
5/22 | 千葉県木更津到着。長官の遺骨を駆逐艦「夕雲」に引渡し。横須賀へ | |
6/24 | 昭和天皇行幸 | |
7/1 | 呉工廠にてレーダー設置 | |
1944年(S19) | 3/29 | パラオより呉に向かう途中雷撃一本を受ける |
3/31 | 旗艦解任 | |
4/3 | 呉入港 | |
6/15 | マリアナ沖海戦参加の為ギマラス出撃 | |
6/19 | マリアナ沖海戦参加 | |
10/22 | 捷一号作戦。ブルネイを出撃しレイテ湾へ | |
10/24 | シブヤン海にて米機の集中攻撃を受け、両舷に魚雷20本爆弾18発を受け大破、艦隊より落伍。午後7:35沈没 | |
1945年(S20) | 8/31 | 除籍 |